財団法人岡山社会保険協会

社会保険協会の概要事業案内広報誌情報公開リンク集

お知らせ一覧

トップページ > お知らせ一覧 > お知らせ記事

2018.04.25

春のウォーキング大会が終わりました

4月22日(日)参加者68名でウォーキング大会を実施しました。 
 
倉敷市茶屋町駅前の鬼の広場に集合、下津井電鉄の跡地の新緑の桜並木から経ヶ島、浮洲岩跡から先陣庵を経由して藤戸寺へ。 
藤戸寺でお弁当を食べたあとは鶴崎公園経由で磯崎眠亀記念館の見学をし鬼の広場に帰着。 
当日は4月とは思えぬ夏日となりかなり暑い一日でしたが、全行程約9㌔を全員完歩しました。 
屋島の源平合戦の前哨戦となる藤戸合戦の史跡の各所では当協会の役員で地元の歴史に詳しい勝手名誉教授による歴史授業があり、由緒ある藤戸寺では境内でお弁当を食べさせていただき、磯崎眠亀記念館では地元ボランティアの方のご厚意で解説付きで見学させていただきました。 
茶屋町や藤戸の地元の方々のご協力のもと「岡山の史跡と自然を歩こう!」というタイトルにピッタリの有意義なウォークとなりました。 
 
さて、その歴史とは・・・ 
800年前の源平の頃、藤戸のあたりは海に小島が点々とある状態で海上交通の要衝となっていたようです。 
一ノ谷合戦で敗れて四国の屋島に一旦退いた平氏が盛り返して児島まで進出してきました。源氏も対岸まで進出して対峙しましたが、船を持たない源氏は攻めあぐねていました。そんななか、源氏の有力武将佐々木盛綱は先陣の功を狙って漁夫に地形を尋ね、聞き出していた浅瀬を馬を躍らせて一番に海を渡り平氏を奇襲、味方を勝利に導いたというお話。 
しかし、浅瀬の秘密を守るため盛綱はその漁夫を斬り捨ててしまいます。それにまつわる史跡もたくさん残っています。 
 
 
ウォーク途中の歴史探訪 
 
<国境の境界石> 
干潟開発の帰属ををめぐって備中国沿岸の村々と対岸の備前児島の村々が激しく争っていたときに幕府の裁定により当時の海岸線(現在の岡山市南区大福~妹尾~箕島~早島町~倉敷市茶屋町早沖~茶屋町のライン)が備前と備中の境界線と定められ、国境を示すために建てられた10本の標石のひとつ。あぜ道にある三角の石がそれ。表示の立木がなければ絶対に見逃します。 
 
<経ヶ島>  
児島の領主となった佐々木盛綱は、浅瀬の秘密を守るため討った漁夫の母の嘆きを見て哀れに思い、藤戸寺で大法要を行ったとされ、そのとき書写した経を藤戸寺の境内であったこの小島に埋めて経塚を建てたことから経ヶ島と呼ばれるようになったということです。 
 
<浮洲岩跡> 
かつては藤戸海峡の中央に位置し、潮の満ち引きにかかわらず大きな岩が出ていたことから名付けられたという。 
織田信長が錦に包んで二条御所に運び、豊臣秀吉が醍醐三宝院の庭に移して主人石を立てたという藤戸石がこの浮洲岩です。 
 
<先陣庵> 
佐々木盛綱は漁夫に聞き出していた浅瀬を渡って先陣の馬を乗り上陸した場所。後日再び盛綱がこの地に入り、その時討った漁夫や双方の戦死者を弔って建立した先陣寺が、時の流れと共に庵になったとのことです。 
 
<藤戸寺> 
寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(705年)に千手観音像が海中から浮かび上がり安置したことに始まり、そののち行基により千手観音像を本尊とし寺院が創建。 
佐々木盛綱が、源平両軍の戦死者と自分が殺した漁夫の霊を弔うため大法要を営んだお寺で、戦乱で荒廃した寺院を修復したとされています。 
 
<磯崎眠亀記念館> 
明治7年、眠亀42歳の時に自宅兼研究所として建てられた町屋。明治11年に他に類のない巧緻美麗な花莚「錦莞莚」を発明し、英国や米国などへの輸出の販路を開拓し日本の重要輸出品にまで成長させ、実業家としても成功をおさめた。この建物には発明家としての眠亀らしい工夫が随所に見られ、実物の錦莞莚や関係資料も展示されています。(建物:国登録文化財、錦莞莚:市重要文化財) 
 

社会保険協会の概要事業案内定款財務諸表広報誌リンク集 ページ上にもどる